ティモ・マンッタリ
イラストレーター、グラフィックデザイナー
第5回<前編>
絵を描くことは、ごはんを食べるのと同じ。好きという気持ちを大切に描き続ける
フィンランドを訪れると、必ず探してしまうのが、素敵なグラフィックのアイテム。中でも、ヘルシンキの街並みやフィンランドの文化を描いたポストカードやカレンダーは、つい手に取ってしまいます。ちょっとずつ集めていたのが、イラストレーター、ティモ・マンッタリさんのアイテム。ぜひ一度、じっくり話を聞いてみたい! 密かに抱いていた夢が実現しました。
――ティモさんはインスタグラムなどやってらっしゃらないので、ちょっぴり謎に包まれたアーティストという雰囲気があります。まずはティモさんがどのような子ども時代を過ごし、イラストレーターになったのかお聞きしたいです。
T 絵を描くのが好きで、自分の雑誌もよく作っていました。漫画を読むのも好きで、中でもアメリカのコミック『Peanuts』『Mandrake the Magician』『The Phantom』が大好きでした。兄も絵を描くのが得意で、グラフィックデザイナーの母はいつも家で仕事をしていましたし、環境的に影響はあったかもしれませんが、だからと言って、私がインドアな子どもだったわけというではありません。私たちはヘルシンキ中心部からほど近いエリアのアパートメントで暮らしていて、近所には若いファミリーが多かったので、外で遊ぶ友達もたくさんいました。
――お母さんはグラフィックデザイナーだったのですね。絵を描くことにおいて、誰の影響を最も受けていると思いますか。
T 家で絵をたくさん描いていたという経験が最も大きかったとは思いますが、かといって文化的な家だったかというと、そういうわけでもありません。絵を描くということは、ごはんを食べることや、寝ることと同じくらい当たり前の日常でした。
――職業として、いつアーティストになろうと思ったのでしょうか。
T 絵を描く人、アーティストやイラストレーターになりたいというのは、常にそう思っていたと思います。
子どもの頃は、考古学者や道化師、
ホーボー(渡り鳥のように仕事を求めて渡り歩く労働者)、
シッティング・ブルやクレイジー・ホースのような、
ネイティブアメリカンの戦士、映画製作者、短距離ランナー、
海洋学者などにもなりたいとも思っていました。
いろいろ興味はありましたが、
最後まで残ったのが絵を描く仕事でした。
――絵はどこで学んだのですか。
T 16歳から18歳にかけて、ヘルシンキでビジュアル・アーツの後期中等教育を受けた後、グラフィックデザインを学ぼうと何度か大学に出願しましたが、入学するのが難しく、3年かかりました。その間、独学で絵を描いていましたし、トゥルク・アーツ・アカデミーでも1年間、絵画やドローイング、彫刻、グラフィックなどを学びました。そのあと、ヘルシンキ芸術大学(現・アアルト大学)に入学し、グラフィックを専攻しました。
――実際にイラストレーターとしてのキャリアはいつスタートしたのでしょうか。
T 大学に入ってすぐです。雑誌に売り込みを始めました。自由に使えるお金がほしくて、すぐに働きたいと思ったんです。いくつかの学生誌で仕事を得て、それらが出版されると、広告代理店や有名な雑誌から依頼が舞い込むようになりました。
――最初はどのような仕事から始められたのでしょうか。
T 最初の頃は、雑誌や新聞に絵を描くことが多かったですね。本当にタイミングが良かったと思います。『ヘルシンギン・サノマット』(フィンランド最大の日刊紙)が、若い人向けに、新しい雑誌を創刊した頃で、他の雑誌もイラストレーターにたくさん仕事を依頼する時代でした。そこで私は、文化、政治、経済、コラムなど、さまざまな記事のイラストを描きました。
当時はいろいろな技法を使って描いていました。ガッシュ(不透明水彩絵具)で描いたり、ペンやクレヨンで描いたり、コラージュしたり。のちに、デザインも手がけるようになり、冊子や展覧会のデザイン、映画のタイトル、ポスター、ロゴ、アニメーションなども作るようになりました。

――私たち日本人にとって、ティモさんの作品に触れられる機会は限られていますが、フィンランドに行って新しいティモさんの作品に出会うと胸が高鳴ります。クレジットを見なくとも、一目でそれがティモさんの作品だと分かるのですが、どのようにして作風は作られていったのですか。
T 若い頃は、自分のスタイルというものを持っていないのが悩みでした。また私はアウトライン(輪郭の線)をつけるのが好きではなかったのです。新聞の仕事をしていた頃、紙を2枚用意し、1枚にアウトラインを描き、もう1枚には色を塗り、その2枚をパソコン上で組み合わせるというやり方をしていました。色だけで描くことが好きだったので、ちょっとずつアウトラインを減らしていき、縁取り線のない、色の面だけで描く私のイラストレーションスタイルができあがったのです。
例えば、スクリーンプリンティング(版画の手法の1つ。色ごとに版を分けて刷る)の作品では、2つの色が一部だけ重なったり、完全に重なって混ざりあったりすることで、魅力的な画面ができあがります。この手法を私はよく自分の作品で使っています。また、意図的に重ねる色の面をずらすこともあります。

イラストレーションを2色に分けて描き、重ね合わせ、1枚の絵に仕上げる。
アメリカの作家John Steinbeckの小説『Cannery Row』のフィンランド語版(Tammi/刊)。
T もう1つ、私の作風に影響を与えているのは、古いもの。映画、本、雑貨、写真、建築、パッケージデザインなど、私はなんでも古いもの、昔のものが大好きなんです。

左/タイトル「Tikka」。昔は、サマーコテージに行くと誰もが持っていたもの。
中央/タイトル「Pappa」。ティモさんのおじいさんのものたち。
でも実はおじいさんは、タバコを吸う人ではなかったそう。「ちょっと嘘をついてしましました」とティモさん。
右/タイトル「Keppihevonen」。都会で暮らす子どもたちの夏の遊び道具。制作/Kehvola
――最近はどのようなツールを使って描いているのでしょうか。
T ソフトはPhotoshop、ツールは古いWacomのペンタブを使っています。あとは、紙に鉛筆やマーカーでスケッチをすることもあります。いつかまた、絵具などを使って描きたいと思うのですが、今はその時間がありません。
――ティモさんはフリーランスで長年活躍され、またパートナーのヴェーラさんと立ち上げたデザインカンパニーの「Kehvola」(ケフボラ)でもイラストレーションやデザインを手がけていらっしゃいます。最も好きなのはどんなイラストレーションワークでしょうか。
T 書籍の仕事が一番好きですね。クライアントの希望に応える必要があり、思ったようにいかないこともありますが、すべてがうまくいったときは、とても楽しい仕事です。また、雑誌や新聞は販売期間が短いですが、書籍はお店に置いてある期間も長いですし、物としての本の存在も好きなんです。私はこれまで電子書籍やオーディオブックスなどは利用したことがないくらいなので。
本のデザインの仕事では、文学とイラストレーション、タイポグラフィーを組み合わせるのがとても楽しいです。自分たちの会社「Kehvola(ケフボラ)」の商品では、パッケージデザインも手がけています。クライアントの要望に応える必要がないので、自由にものづくりができる。本当に楽しい仕事ですね。


――日本人の私たちは、ティモさんがデザインした本を見る機会がなかなかないのですが、どのくらい手がけているのでしょうか。
T かつては1年に12冊くらいの本のデザインをしていました。今は年に1〜2冊くらい。Kehvolaの仕事を大切にしたいので、ほかの仕事は以前ほどしていないですね。

――私が、ティモさんのイラストレーションを好きな理由は、いくつかありますが、特に好きなのはフィンランドの自然や暮らし、文化を感じることができること。そういったフィンランドらしいモチーフを描くことについては何か意識していることはありますか。
T Kehvolaを立ち上げた頃は、フィンランドらしいモチーフを描くことは特に考えていませんでした。しかし、アメリカやイギリスなど、世界中にたくさんいるイラストレーターたちがすでに描いているようなものを描いても意味がないと、すぐに気づいたんです。

ポストカードの絵を描くのが好きです。
ポストカードの小さな画面の中に
いろいろなものを詰め込むことができます。
そして描くことで、自分の子ども時代を思い出します。
それがまた楽しいのです。

T 先ほどお話しした通り、私は古いものが好きですが、コレクターではありません。古くて愛おしいものを描くだけで十分楽しいのです。

一番上のクロスには、ラスキアイスプッラ、ルーネベリタルトなど、
フィンランドの代表的なスイーツとティーウェアが描かれている。Photo by Satsuki Uchiyama


「FINLANDIA memory card matching game」には、フィンランドの象徴的な建物と街、季節の風景、
パンやベリーなどの食文化などが描かれている。Photo by Satsuki Uchiyama
記事は<後編>に続きます。後編では、ティモさんがパートナーのヴェーラさんと共同経営するデザインカンパニー「Kehvola」(ケフボラ)の仕事についてお聞きしました。